障害者雇用×行動分析学 雑記帳

障害者雇用と行動分析学についての雑感です

自己理解・自己決定に関する自分用の所感メモ

■自己理解・自己決定についての議論を深めるための論点

 

・自己決定とは、全部本人に決めさせること?違うなら「何を本人が決め、何を周囲が決めるか」を決めるのは誰?本人?周囲?

・自己決定の範囲や程度は?手術を受ける患者に「どのメスを使いますか?」を聞くことは自己決定のあるべき姿、理想形と考えていいのか?

・顧客がサービス提供者に対して「適当に見繕って」という選択肢も世の中にはよくあるが、決定をサービス提供者に委ねることは自分の自己決定を破棄してしまったのか?これは「自己決定力が低い状態」とされるのか?

・障害者本人が「私は今すぐ働きたい」というのは、自己決定力が高い状態と捉えていいのか?周囲から見て、働くことに対して準備不足でも自己決定を尊重するならば、すぐにハローワークに連れて行くのが自己決定を支える支援と考えてよいか?これが違うなら何が違うのか?

・「自己決定をしたくない」という選択を自己決定した場合にはどうのように支援するのか?

 

【自己理解・自己決定という言葉を使う支援者】

・自己決定と言いながら、支援がうまくいかなかったときに「本人が決めたことです」と支援者が言い逃れしたり、スキル不足を隠すことに使われる危険性は?そして、そのことに支援者は無自覚になることはないか?

・本人の自己決定ではなく支援者の思い描くルートに乗せてないか?支援者にとって都合のよい選択をすれば自己決定ができている人、都合が悪い選択肢なら自己理解ができていない人?と言われていないか?

・自己決定は重要という点に異論はないが、「自己決定は良いことだ」という暗黙の前提がないか?そして、この暗黙の前提を自分が採用していることに支援者は気付いているのか?その気付きは必要ないのか?自己決定することはいいことだというのは一つの思想であって、絶対ではないのでは?

・無批判に「自己決定はいいことだ」を採用すると、その先には、「あの障害者は自己決定できてない、もっと自己決定すべきだ」という自己責任的な構図にならないか?「自己決定・自己理解ハラスメント」のような。 

 

・支援現場で使われる「自己理解ができていない」という言葉は「支援者の言うことを聞かない人」「困った人」という意味合いで使われているように感じる場面がよくある。これは支援者の力量不足を対象者の自己理解という言葉を使って対象者にその問題の原因を押し付けていないか?自己理解がそのような使われ方をしていないか?

・もちろん、実際には対象者の努力や経験不足等、支援者の技術とは違う要因も多々あることもあると思うが、支援者に常に「自分のやっている支援が間違ってないか?」と自分自身に問い続けるスタンスがないと、簡単に「善意や思想(自己決定はいいことだ。みんな自己決定すべきだ)の押し付け」になり、支援者の意に沿わない対象者に対して「あの人は自己理解が足らない」と批判して終わりになる危険性があるのでは?特に自分で主張する力が相対的に弱い対象者や家族はその矛盾を指摘できる手段を持ち合わせていないことが多いかもしれない。その場合、とても悲惨な状況になる。

 ・「デニーズへようこそ。お客様の年収は?」(立命館・望月昭氏)で書かれている「サービスの科学」と「知る科学」という言葉で表現するなら、「知る科学」に陥っていないかを支援者が常に自己モニタリングしておくことが必要。

最近考えること (ritsumei.ac.jp)

 

 

 まとめると自己理解を対象者に求める前に、支援者自身が「自分の考えや視点、思想がどこから出てきているのか、やっていることに間違いがないのか」と自己点検、自己理解して、それを続けることがまずは必要では?というのが私のスタンスのようだ。

 多分だが、私が誰かから「あなたは自己理解できているのか?」と聞かれても、自信を持って「できています」と言えないので、「自分もできていないのに誰かにそれを求めていいのか?」という気持ちが根底にあると思う。「お前が言うなよ」的な。

  

【現時点で、私が考える自己決定にまつわる支援者に求められること】

①本人に選択を委ねる力(胆力ともいえるか?支援者が決めることは簡単)

②本人に提示できる選択肢を考える力(「この道しかない」は本当か?)

③提示できる選択肢を増やす力(本人の力を伸ばす、周囲の環境を整えるスキルが支援者にどれくらいあるのか)

④選択した選択肢が何であれ、選んだ選択肢を進むことを支える力(一人の人として相手を捉え、選んだことを尊重する。実現させるスキルと困難な道でも付き合っていくぞと腹を括る力)

 いずれも支援者に高い支援技術が求められる。